のだっく・著

 

 

さびれたビル群をひとりで歩いていた。
周りには人どころか犬や猫、鳥さえ見あたらない。
時折、風の音が聞こえる程度で、ひどく静かだった。

 

そんな中、どこからか何かが鳴くような声がしてきた。
どうやら、人間の赤ん坊の泣き声のようだ。
不思議に思いながらも、僕はその声につられるようにある小さなビルに入っていった。

 

ビルの中は薄暗く、少し肌寒かった。
赤ん坊の声は入り口からまっすぐ伸びた廊下の突き当たりの部屋から聞こえてくるようだ。
僕は少し緊張しながらその部屋へと向かった。

 

ドアは少しだけ開いていた。
そっとドアを開けると、溢れんばかりの光が目に飛び込んできた。
そして、次に目に入ったのは部屋の中央に置かれたゆりかごだった。

 

赤ん坊の泣き声は、まだ止むことなく続いている。
僕はゆりかごへと静かに近づいた。
そして、ゆっくりとゆりかごをのぞこうとした時、ピタリと泣き声が止んだ。
見ると、そこに赤ん坊はいなかった。
誰かが寝ていた跡すら無い。

 

鳥肌が立った。
急に部屋に満ちている光さえ、不気味に感じられた。

 

どういうことだ?確かにさっきまで声がしていたはずなのに。

 

混乱していると、突然、誰かのつぶやきが聞こえた。

 


――
もう、次のやつが来たのか。最近、やたら多いな――

 


「誰だ?」

 

辺りを見わたすが、部屋には自分以外誰もいなかった。

 


――
残念だが、ここにいるのはお前と俺だけだ――

 


信じられなかった。だが、確かに目の前のゆりかごから声は聞こえてきた。

 

 

「どういうことだ?」

 

 

――どういうことだだって?そんなのお前が一番分かってるだろう?
   お前は逃げてきたんだ。色んな苦しいものから逃れたくて
   ここに来たんだろう?――

 

 

そうだった。

僕は逃げてきたんだった。急に息苦しいほどの苦い記憶が蘇ってきた。

僕は今生きている世界で生きていくことが苦しくなって、
どこか違う世界へ逃げたいと願っていた。

 

 

――俺に寝っころがっちまえば、楽になれるぜ?
   なんも煩わしい事の無い世界へ簡単にいける――

 

 

その言葉は、甘く僕を誘った。
だが、そこでふと先ほどの赤ん坊の泣き声が思い出された。

 

 

「まさか、さっきのあの泣き声は

 

 

――ああ。そうさ、お前の前に来た奴のさいごの声さ――

 

 

それを聞いて、ガンと頭を叩かれたような気がした。
確かに、僕は苦しくて現実の世界から逃げたいと思った。
どこか自分が生き生きと生きられるような世界に行きたいと思った。

 

でも、今、目の前に差し伸べられている手は(手は無いが)
本当に僕が望んでいるようなものだろうか?

 


僕は悩んで、考えて、そして、これは何か違うという結論に至った。

 

僕はゆりかごに向って言った。


「悪いけど、僕は遠慮しておくよ。君は寝心地良さそうだけど、
 僕はまだ何も考えずにずっと眠るわけにはいかない。」

 

 

――あっちに戻れば、また悪夢がまってるぜ?――

 

 

僕は、それでも自分が無くなるよりずっといいと言って
部屋のドアへと向かった。

 

最後に、ゆりかごが後ろの方で、僕の顔が部屋に入ってきたときより
よっぽど良いと言って笑っていた。

 

そして僕はゆりかごにお別れを告げた。

 

 

 

部屋のドアを閉めると、また薄暗い廊下が目の前に続いていた。
しかし、ひとつ違う所があった。
入り口が無くなっているのだ。
確かに、僕は入り口からまっすぐ伸びた廊下の先にあった部屋に入ったはずだ。
僕は先程手に入れたと思った小さな希望さえ嘘のように、再び焦燥感にとらわれた。


僕はやみくもに歩き回った。
しかし、全然出口が見つからない。
もう泣きそうだった。

 

しくしくしく

 

しかし、自分が泣く前に、誰かの泣き声が聞こえてきた。
今度は赤ん坊ではないようだ。

再び、声がする方へと進んで行くと、書斎のような部屋にたどり着いた。

だが、そこにはまたしても誰もいなかった。
今度は机でも喋るのかと思って目を向けると、
そこには、あたかも誰かが椅子に座っているような影が机に映っていた。
泣いているのはどうやら、その影のようだった。

 

 

「どうしたの?どうして泣いているの?」

 


『しくしく私の体が私を忘れてどこかへ行ってしまったの。』

 

 

そんなことがありえるのか?と思いつつ僕は自分の足元に自分の影があるかを確認した。

影はそこにあった。すこしだけ安心した。

 

だが、どういう経緯で影と体が離れたというのだろう。
そこでふと机の上の紙が目に留まった。
そこにはいくつかの走り書きがしてあった。

 

  私は誰だっけ
  なんのために生きてるんだっけ
  ・・・・・・・

 

それを読んで、なんとなく影と体が離れた理由がわかったような気がした。

 


私と体が離れたとき、体は自分の嫌な所を切り捨てることができたと初めは喜んでいたの。』

 

 

影はぽつりぽつりと話をしてくれた。

 

 

『確かに、体が軽くなったおかげで、初めのうちは元気に明るく見えていたわ。

だけど、段々人を傷つけても何も感じない、

どんな感動的な歌や映画に触れても何も感じられないようになっていった。

そして、最期には狂ってどこかへ行ってしまったわ。』

 


そして、話し終わるとまた静かに泣き始めた。

 

僕は慰めることもできず、立ち尽くしていた。
そこでふと、思いつきで自分の影をここに置いて行ったら、
この影は寂しくなくなるかななどと考えた。
僕はまったくの考えなしだ。

 

だが、そんな僕の頭の中を読んだのだろうか、影は泣くのをやめて顔を上げて言った。

 

 

『ありがとう。でも、やめておいた方が良いわ。
体と影が一度離れたら、また一つに戻ることは決して容易なことではないから。』

 

 

そう言うと、一瞬、影が揺らいだ気がした。

 

 

「どうしたの?大丈夫?」

 

 

表情は見て取ることはできないが、なぜかそのとき、影が微笑んだ気がした。
そして、僕の手をとるように影が僕の影に重なった。

 

 

『あなた、もっと自信をもっていいのよ。

私はあなたの考えなしでも優しい心に救われた。

わかる人にはきっとわかる。』

 

 

触れられるはずもないのに、僕の手を取るように重なっている影の温かい体温が伝わってくるようだった。
影は、再びありがとうと言うとゆっくり揺らいで拡散していった。

 

影が完全に消えてしまう前に僕は目を閉じてありがとうと言った。
まぶたの裏に一瞬、笑顔の似合う髪の長い女の人が見えた気がした。

 

目を開けると影はもうそこにはいなかった。

僕は机に置いてあった紙を折りたたんでポケットに入れた。

 


「答えは僕が見つけるから」

 


僕はひとつ大きく深呼吸をして、目の前のドアを開けた。