くらら・著

 

 

「疲れました」

「そう」

「生きてゆくのに疲れました」

「そう」

 僕は口をつぐんだ。彼女はいつもの素知らぬ顔で、無機質な天井を見上げている。

「あなた、生きてたの」

 彼女がぽつりと呟いた。僕は項垂れた。

「はい。生きてきました。このようにただ在る事を、生きると呼ぶのであれば、私〈ワタクシ〉は、恐らく生きてまいりました」

「ああ、そう・・・」 彼女は何にも無頓着なのである。

 僕は遣る瀬なく冷たいデスクに腰掛けた。

 赤ん坊を抱きかかえた木の上の揺りかごは、風が吹くと落ちて川に流される・・・眠る赤ん坊を道連れに・・・

 気付いたらこんなところにいるはめになる。

「あなた、死ぬの?」

 不意に彼女が尋ねた。

「わかりません。死のうかと、考えていたところです」

「じゃあ、あなた本当に生きてたのね。死ねるんなら」 彼女は平然と言った。「で、なんで死ぬのよ」

「生きてゆくのに疲れたからです」

「馬鹿ね。死ぬのは生きる事よ」

「死ねば生きた事になるのでしょうか」

「死んだらオシマイに決まってるでしょ」

「・・・それは矛盾と呼ぶのでは?」

「パラドクスと呼んでちょうだい」

 彼女はただの白い紙切れだというのに、あまりにも複雑だった。世の中みんな、そういうものであった。僕は泣くにも泣けず、半開きのカーテンの隙間から差し込む光の中を浮遊する、ホコリの渦にじっと視線を注いだ。

 

 

「なんで笑ってるの?」

 言われて、僕は笑みを浮かべている事に気が付いた。今までずっと、笑みを浮かべて生きてきた事に気が付いた。

「笑っていますか、私は」

「笑っているように見えるわ」

「そもそも、笑うとは何なのでしょう」 僕は自分の口角のあたりに触れた。「私には、それはただただ深いシワをつくり、顔を醜く歪めているだけのように思われます。歪めて、その内にあるものを他人〈ヒト〉に見せぬようにするのです。人間は皆、そうして笑います。誰に習ったわけでもなく、いつからか私もそうして笑っていました」

「・・・よく喋るわね」

「私は、もう死にますので。やっと死ぬ時が来たのです」

 彼女は一瞬押し黙り、それから甲高い声で笑った。耳を塞ぎたくなるような響きだった。僕は怯んで机からずるりと下り、あとじさった。

「やっと死ねる?」 嘲笑の合間に彼女は言った。「あなたって、もうあきれるくらいにネガティブね!馬鹿みたい、何よそれ。何サマ?」

「そういう意味ではありません」 笑い続ける彼女に言い返す。「もう十分に生きました。それは長い間。死んで後悔するような事は何もありません。死ぬ時が来たのです。私は、死を受け入れます」

「カッコつけないで!結局、もっと生きたいって思える生き方をしてこなかったんでしょ。生に満足するなんて、そんなつまらない生き方ないわ。しかもあなたの場合、十分に生きたなんて真っ赤なウソ。ウソウソウソ。ペンなら、持ってるでしょう?」

 ペンなら持ってるでしょう?

「い、いえ。私は・・・」

「・・・いいの。気にしないで」

 先程までのぞっとするような勢いは消え失せ、僕達は再び、水飴のような沈黙の中に沈んでいった。

 

 

 僕は彼女を手に取った。

「・・・何?」

「私はゆきます。その前に、あなたを裁断機にかけようと思います」

「・・・・・・馬鹿ね」

「はい。私は愚かでした。最後の最後に、唯一利口なことをしようと思うのです」

「・・・あなたの服は真っ白ね」

「これも私の笑顔なのです」

「白はいいわ」 彼女は体を揺らめかせた。「でも、そればかりもつまらないわね。あたしはずっと白のままでいたけれど、そろそろ、あきちゃったみたい」

 僕は彼女をしばらく見下ろしていたが、とうとう一歩踏み出した。

「ねえ」

 存在も存在した証も消されようというのに、彼女は、いつもの美しさを保ち続け、凛としていた。一輪のバラのようである。

「あなた、いろんな事を忘れているわ」

「あまりにも、すべてがみじめだったものですから」

「そんな事じゃないの・・・。あなた、ペンを持ってるでしょう?」 僕の視線に気付いて、「ペンだけじゃない。ペンを持つ手の動かし方も、その手の存在すらも忘れてる。それでそのペンと手と腕をあなたのすべてを使って、何を描けばいいのかも忘れてる。何故その何かを描かなければならないのかも」

 僕は言葉を失い、そして、みじめさに笑った。我ながら気味の悪い笑い声だった。彼女はその笑い声を受け、不快そうに身をよじった。

 

 

 僕は再び歩き出した。彼女は抵抗しなかった。抵抗できないからだ。

「赤なんて素敵よね」 しばらくして彼女は言った。「大胆に、黒なんてのもいいかもしれない。でもやっぱり、カラフルなのがいいわよね。知っていて?あたし、何にでもなれるのよ。だって、真っ白なままなんですもの。蝶になって自由に飛びまわる事も、木になって大空に枝を広げる事もできるんだわ。そうなればどんなに楽しいかと思うと同時に、こうしてただの白い長方形でいながら、そんな将来と可能性に思いを馳せる事自体が、ねえ、とってもしあわせだったの」

 僕は答えず、相槌すら打たず、足を止めた。目の前で、無骨な機械が口を開けて彼女を待っていた。

 僕の死は当然の事に思えたが、彼女が死ぬのに理由はなかった。それでも、彼女はただ語った。夢見るように体を揺らめかせて。

「そうだ。あたし、人間がいいわ・・・」

「それだけはやめた方が」 思わず呟く。

「なぜ?」

「それは・・・もっとも醜い生き物だからです」

「そうかしら」

「そうですとも」

 死の縁にいながら、彼女は自身の身なりをちらちらと確認した。

「あたし、醜いものにはなりたくないわ」

「あなたは美しいですから」

「でしょう?」 平然と答える。「だから、あたし、人間がいいの」

 将来を語る彼女を前に、僕は機械のボタンを押した。見えない刃が、異様な唸りとともに腹の中で動き始める。

 

 

「さようなら」 と僕は呟いた。それは、去りゆく彼女への言葉というよりは、去らんとする僕の意志であった。

 彼女は最後までつめたく、あたたかく、そっけなく、優しかった。矛盾だらけで、それがまた、美しかった。

「あなたが“美しい”って言ってくれて、それだけは、嬉しかったわ」

 彼女は確かに美しいのだ。ただ一枚の白い紙、使われる事のなかった、ただの一枚の白紙が。そのピンと張り詰めた雰囲気、無垢な純白の、聡明で品のある美しさ。その形は、この世で最も美しいとされる比率。寸分の狂いもなく。

 あまりにももろい彼女は、あっという間に機械に飲み込まれてゆく。彼女は声をあげず、機械だけが凄まじい咆哮をあげる。

 生きるよりは。そう、僕は考えた。

 

 私は、もうゆきます。

 それまでの短い間、もしあなたに似たものを見掛けたとしても、それはあなたではないでしょう。

 あなたほど私を悩ませ、傷つけ、それでいて心を奪う存在は、この世のどこを探しても見つかりますまい。

 

彼女は、彼女だけだ。

そう気付いた瞬間、息が詰まり、顔面を殴られたかのように目眩がした。思わず彼女を引きずり出そうとしたが、彼女はもうどこにもいなかった。

僕は泣き叫び、なすすべもなく冷たい機械にすがりつき、喚き、揺さ振り、殴りつけ、懇願した。何の返答もなく、それはただ、何かの、何かの残骸を、空っぽの腹に収めて、そしてようやく動きを止めた。

あとには、わびしい静寂と孤独とが、重く苦しく室内に垂れ込めていた。

 

 

僕はしばらく胸もつぶれんばかりの思いで機械を凝視していた。そしてゆっくりとそれに背を向け、部屋を横切り、あの四角い固いデスクに戻った。ついさっきそうしたように、その上に腰掛ける。

痛いほどに静かだった。デスクの上、僕の後ろに彼女は居ない、それ以外に世界は何も変わらず、セピア色の景色に差し込むおぼろな光の中、ふわりふわりとホコリが舞っていた。

初めて、愛しさに僕は泣いた。

 

あなたは、私に、えがけと言っていたのですね。

しかし、そのあなたはもうどこにもいない。

 

膝の上でじっとしている僕の手には、ペンがあった。色とりどりの筆が、無限に、僕の内にある。

見下ろす。キャンパスなら、ここにある。

眩しいほどに生まれたての白、僕の服、彼女の体に、さあ、色とりどりの 生 をえがこう。